皇帝ティートの慈悲

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オペラシーズン開幕
2025年11月20日(木)のオペラ開幕公演では、ブラックタイ着用が必要です。


皇帝ティートの慈悲 – ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト | オペラ
イタリア語・英語の字幕付き

 

 

あらすじ

ティートの父ウェスパシアヌスは数々のライバルを倒して皇帝となった人物で、息子のティトゥス(ティート)はユダヤ戦争を指揮してエルサレムを鎮圧した。古代ローマの町ポンペイが大噴火で埋まった時の皇帝であり、災害復旧に寝る間も惜しんで尽力したが、激務のために早死にしてしまった。ということで大変慈悲深い皇帝として知られている。ポンペイは1739年に発掘され一大センセーションを巻き起こした。古代ギリシアから古代ローマまでの真の姿はこの遺跡から想像して見ることしかできない。モーツァルトは父に連れられてポンペイ遺跡を見ている、このことは父の手紙に詳しい。

 

第1幕

ヴィテッリアは自分の父から皇位を奪ったティートを憎んでいるが、自分が皇妃となることを望み、ティートがユダヤの王女ベレニーチェを妃に迎えることに嫉妬する。ヴィテッリアは自分に思いを寄せるセストをそそのかして、ティートを暗殺させようとする。そこにアンニオが現れ、ティートがベレニーチェと別れたと告げる。アンニオはセストの妹セルヴィリアとの結婚を望んでいる。ところが、ティートがセルヴィリアを妃に迎えると語り、セストとアンニオは苦悩する。

 

セルヴィリアはアンニオを愛しているとティートに申し出る。ヴィテッリアは再びティートを暗殺するようセストをそそのかす。セストはヴィテッリアの言うとおりにすると決意する。セストが立ち去ると、アンニオとプブリオが現れ、ティートがヴィテッリアを妃に迎えると告げ、ヴィテッリアは驚愕する。セストはティートの暗殺を決行してしまい、混乱のうちに幕となる。

 

第2幕

アンニオは、ティートが無事だったことをセストに伝える。旅立とうとするセストをアンニオは引き止める。しかし、セストはプブリオに逮捕されてしまう。ティートはセストが犯人であることを信じようとしない。アンニオはセストの助命を嘆願する。ティートは裏切られたとショックを受けるが、死刑宣告への署名をためらう。ティートはセストから事情を聞きだそうとするが、セストはヴィテッリアをかばって罪をかぶる。

 

アンニオとセルヴィリアは、セストの助命をティートに嘆願するようヴィテッリアに頼み込む。ヴィテッリアはティートに自分の罪を打ち明けようと決心する。ティートがセストに死刑を告げようとする瞬間、ヴィテッリアは自分が首謀者であると名乗り出る。ティートは「裏切りよりも慈悲が強い」として、すべてを許す。一同はティートを讃え、幕となる。

プログラムとキャスト

指揮:アイヴァー・ボルトン
演出:ポール・カラン

 

ラ・フェニーチェ劇場 管弦楽団および合唱団
合唱指揮:アルフォンソ・カイアーニ
ラ・フェニーチェ劇場のプロダクション

 

配役は現在調整中で、決まり次第発表されます。

フェニーチェ劇場

 

フェニーチェ劇場(Teatro La Fenice)は、イタリア・ヴェネツィアにある歌劇場である。日本語でもしばしばラ・フェニーチェ(-座、あるいは-劇場)と表記される。開場は1792年5月16日。

イタリア語でfeniceは不死鳥を意味し(英語のphoenixに相当)、その名は1773年に火災で焼失したヴェネツィアの他の歌劇場の後継を自負して名付けられた。その後この劇場自体、1836年と1996年の2度にわたって火災により全焼したが、その都度再建がなされ、「不死鳥」の名にふさわしい歴史を誇る。

 

ヴェネツィアとオペラの関係は古い。1630年、モンテヴェルディの『略奪されたプロセルピーナ』Proserpina Rapitaがヴェネツィア総督モチェニーゴ・ダンドロの邸宅で行われた、とあるのがヴェネツィアの記録上最古のオペラ演奏である(同邸宅はその大部分が現存、ホテル・ダニエリとして利用されている)。17世紀には少なくとも16の歌劇場が競合するなど隆盛を極めていた。

 

サン・モイゼ劇場は1640年に開場、1818年まではオペラの定期公演が行われ、ヴィヴァルディやパイジエロなど18世紀のオペラ作曲家の新作が多くここで初演された。後にはオペラ・ブッファに特化した運営となった。ロッシーニのオペラ『婚約手形』La Cambiale di Matrimonio(1810年)や『ブルスキーノ氏』Il Signor Bruschino, ossia Il Figlio per azzardo(1813年)なども、当劇場の委嘱になる作品である。

サン・サルヴァトーレ劇場(後年1875年にゴルドーニ劇場と改称され現存)は1661年開場、ゴルドーニの戯曲の多くが演じられたことで有名だが、ここもまた18世紀から19世紀前半には有力なオペラ劇場であった。ジュディッタ・パスタがベッリーニ作曲『ノルマ』を演じた記録が残り、またヴェネツィアの劇場中最も早くガス灯による照明が行われた(1826年)。

 

サン・ジョヴァンニ・グリソストモ劇場はマルコ・ポーロの邸宅があったとされる一角に1687年に開場、フェニーチェ劇場の創建以前はヴェネツィアで最重要の歌劇場と考えられていた。この劇場はグリマーニ家という富豪の運営になる劇場のうちの一つであり、少なくともここヴェネツィアにあっては、入場料さえ払えば、身分に関係なく誰でもオペラを鑑賞できる最初の劇場となった。ヘンデル作曲『アグリッピナ』(1709年)は当劇場で初演された。1836年に当時の高名なソプラノ歌手、マリブランが28歳の若さで急逝したとき、前年に当劇場でベッリーニ作曲『夢遊病の女』La Sonnambulaを歌い大成功を収めたことを追憶するためマリブラン劇場と改称された。20世紀に入ってからは映画館に改装されたが、その後もしばしば小規模オペラの公演に利用され、また、後述の1997年からのフェニーチェ劇場焼失再建期間中は仮劇場の一つとして活用された。

 

グリマーニ家の歌劇場のうち、その内装の優美さによって18世紀後半にもっとも隆盛を誇ったのが1755年に創建のサン・ベネデット劇場だった。この劇場は席数1500の大規模なものであったが、1773年の火災で焼失する。劇場再建にあたって土地の所有者ヴェニエル家と劇場の運営者側との間に法的係争が発生、ヴェニエル家に有利の裁定が下った。その結果劇場運営者側は同地を去り、そこから徒歩10分足らずの近接地カンポ・サン・ファンティンに新劇場を建設することとなった。新劇場は火災(とそれに続く裁判)の困難に打ち克つという意味を込めて不死鳥=フェニーチェ劇場の名が付けられた(下記に詳述)。

 

なお、サン・ベネデット劇場は結局1787年にヴェニエル家によって単独再建がなされた(この際ヴェニエル劇場と改称された)。フェニーチェ劇場開場後の1813年に至っても有名なロッシーニ作曲『アルジェのイタリア女』Italiana in Algeriの初演がこのサン・ベネデット劇場で行われていることからみて、少なくとも一定期間はフェニーチェ劇場に伍する歌劇場としての地位を得ていたとみられる。なお、同劇場は1868年にロッシーニ劇場と再改称され、1925年からは映画館として使用されている。

 

輸送

 

水上バス
2行目:トロンケットから
リアルト橋、サンマルコとリドの方へ

ローマ広場やサンタ·ルチア駅から:ライン1またはライン2
リアルト橋、サンマルコとリドの方へ

停止します。リアルト橋、聖天使、聖サミュエルやサン·マルコ(ヴァッラレッソ)、ライン1を取る。
またはリアルト橋やサン·マルコ(ヴァッラレッソ)、ライン2を取る


マルコ·ポーロ空港からアリラグーナ公共交通サービス - リアルト橋やサン·マルコ(ヴァッラレッソ)にブルーラインにオレンジ色の線を取る

 

入り口

フェニーチェ劇場は、2つの入口があります。
- ステージドアは劇場スタッフと出演者のためであり、ドアマンによって有人されます。
- メインの入り口


エレベーター

ボックス、ギャラリーや家族の輪は、エレベーターを経由して到達することができます。

アクセス

劇場は特別なニーズのアクセシビリティに関してすべての法的規制に準拠しています。

Ufficio stampa Teatro La Fenice
© Michele Crosera
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